■ 2004年8月 上高地〜涸沢〜奥穂高〜北穂高 |
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北穂高岳より大キレット槍ヶ岳 |
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奥穂岳より上高地俯瞰図 その1 |
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奥穂岳より上高地俯瞰図 その2 |
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■ 2003年10月 紅葉を求めて 〜涸沢への山行〜 |
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堀野 俊男 |
10月12日?13日の連休に今年3度目の北アルプスに行ってきた。今回は上高地?涸沢、天気がよければ北穂高岳まで登る予定で出発。一番の目的は紅葉狩りである。 12日午前3時富田林出発、近畿道と名神を約2時間、一宮分岐で東海北陸道へ入り、飛騨清美インター(約1時間)を出て、国道158号線を約1時間走り午前7時頃平湯温泉着、シャトルバスに乗り換えて午前8時に上高地に到着した。警察医でスピード違反をしてもつかまらないから思い切り飛ばしたなんてことは決して無い。一番の要因は東海北陸道と安房トンネルができたおかげであろう。大学当時すなわち約25年前は夜行に乗って松本回りで約半日かけて入山していたことを思い出すと上高地もそんなに遠くないのだと実感した。上高地といえば、釜トンネル、大正池、梓川、河童橋、帝国ホテル、五千尺旅館、焼岳、穂高連峰、槍ヶ岳、霞沢岳・・・という固有名詞が思い出されるが、その歴史を調べてみた。
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上高地周辺の山に最初に登ったのは記録によると、1828年に槍ヶ岳に登った越中富山の僧侶、播隆上人であった。当時は山岳信仰の登山であっていわゆる近代登山とは性格を異にしていた。播隆上人は信者を引き連れ何度も槍ヶ岳に登っていたようである。明治になって近代化を進めるために明治政府は多くの外国人技師を雇いいれた。その中の一人英国冶金技師ウィリアム・ガウランドは明治10年7月(1878年)に槍ヶ岳に登りその記録を雑誌で紹介した。その中で『Japan
alps』という表現を用いたのが今日の<日本アルプス>の語源になったようである。その後英国人宣教師ウォルター・ウェストンも槍ヶ岳に登り、その著書『日本アルプスの登山と探検』で詳しく上高地周辺の山々を紹介している。ウェストンは上高地から山に登る時は、地元安曇村生まれの猟師上條嘉門次を山案内人として一緒に同行させ、その本の中で「ミスター・カモンジ」と紹介したので、嘉門次は有名な山案内人として今日まで語られている。日本人登山家としては鵜殿正雄が初めて前穂高岳に嘉門次と一緒に登ったのが始まりであった。戦後の首相になった東久邇宮殿下が大正5年に槍ヶ岳に登ることになり、急遽島々?徳本峠?明神?槍ヶ岳の登山道が整備され少しずつ大衆登山へと進んでいった。 明治以前、上高地に出入りしていたのは、樹木の伐採のための木こりがほとんどであった。明治になり、地元島々の上條百次良は許可を得て夏の間だけ松本周辺で集めた牛馬を徳本峠を超えさせ上高地で放牧を始めた。いわゆる上高地牧場の始まりである。場所は、小梨平、明神、徳沢の3箇所、特に徳沢は徳沢牧場とも呼ばれていて残雪の山々を背景にした牛や馬の放牧は、古きよき時代の牧歌的な光景の一部として訪れる登山者に親しまれた。 大正4年6月に焼岳が大爆発を起こし、流れ出た土石流が梓川をせき止めそこにできた池は大正池と命名され上高地の風景のひとつに加わった。上高地ホテル(現在の上高地帝国ホテル)の建築にあたり、釜トンネルを通り大正池まで資材を運びそこから建築現場まではまだ道路が開通していなかったために、大正池を小船で運んでホテルを建てた。昭和2年は上高地にとって重要な年であった。文豪芥川龍之介が3月に彼の代表作の一つである小説『河童』発表、上高地と河童橋を登場させた。7月には鉄道省(現JR)が後援し東京と大阪の新聞社が主催した「日本八景」の渓谷の部に於いて上高地が第一に推された。この月に芥川龍之介は自殺し、8月になると昭和天皇の実弟秩父宮殿下が上高地から奥穂高岳に登り槍ヶ岳への縦走が行われ連日新聞の話題となった。さらに理学博士中井猛之進が、国立公園選定の準備調査中、上高地の河原で日本で初めてケショウヤナギを発見した年でもあった。この年を境に観光客は大幅に増加した。 上高地一帯が国立公園に指定されたのを機に上高地の牧場は閉鎖され河童橋までバスが運行されるようになり誰もが気軽に行くことが出来る観光地となった。また車が普及しマイカーでの入園もあり、年々観光客の数が増えてきた。しかし上高地の駐車場は常に一杯のため、道路は駐車禁止なのにも拘わらずどこでも駐車をしてしまうような事態に陥り昭和50年ついにマイカー規制を実施。その後規制を序々に強化し、現在はマイカーの通行が全面禁止となっている。安房トンネルの開通と共に益々国道158号線の交通量と上高地への観光客が多くなってきたのにともない上高地への新たな交通手段として沢渡から上高地まで、トンネルによる登山鉄道計画が進められているそうである。(上高地観光アソシエーションhttp://www.kamikochi.or.jp/を参考に一部変更) 天候は曇りであるが上高地を出発。バスターミナルから梓川沿いに5分ほど歩くとあの「河童橋」、観光客であふれている。ちなみに今の河童橋は5代目だそうである。そのまままっすぐ行くとキャンプ地の小梨平、バンガローなんかもありキャンプ施設が整っている。ここ小梨平で、今年6月衛星放送で放映されていたのでご存知の方もあるかもしれないが小雨の中「チェリッシュ」のミニコンサートが開かれた。小梨平から約45分で穂高神社のある明神池に着く。このあたりまでは上高地の散策ルートに紹介されており観光客もたくさん来ている。明神を過ぎ約50分で、かつて牧場であった徳沢に着く。ここは井上靖の「氷壁」の宿としても有名である。さらに徳沢から約50分で横尾に、ここで大休止である。上高地から横尾までは梓川沿いのほぼ平坦な道を約11km、約3時間かけて歩く。穂高連峰(前穂・奥穂・涸沢・北穂・西穂等の山々、奥穂の衛兵ジャンダルム・ロバの耳等の岩峰、白出のコルへのザイテングラード・北穂高に続く南稜、ロッククライマーのメッカであり上條嘉門次をして「鳥も通わぬ」と言わしめた滝谷等の言葉が次々に浮かんでくる)の登山基地である涸沢に入る時も、槍ヶ岳への最も一般的な槍沢コースを行く時もこの3時間が苦痛でいつも靴擦れ「マメ」ができるのである。いつもとは言っても24年ぶりのことであるが、今回もこの例に漏れず往路でもう足の裏に水ぶくれができた。横尾までくるとさすがに観光客は皆無に等しいが登山客であふれかえっている。横尾も昔と違い整備され、りっぱな公衆トイレと水場があった。(余談ではあるが山のし尿処理問題のモデル事業として上高地から涸沢までのこの付近一帯では一回100円チップ制がとられている。) ここから横尾大橋を渡り本格的な山道に入る。紅葉は横尾谷?本谷橋付近?涸沢下部が見頃との事前情報を得ていたためカメラを取り出しゆっくり涸沢まで歩くことにする。冷夏のせいか葉っぱの成長が不充分で去年と比べると今年の紅葉は「はずれ」という前評判であったが、初めてアルプスの紅葉を見る者にとっては赤と黄色と緑の大自然のハーモニーがすばらしく見晴らしのよい所に来ると何度もじっと見つめ、見入り、足を止め写真を撮ってしまうのである。屏風岩と本谷橋付近の紅葉が見事で、谷の上方涸沢方面を見ても谷の下方横尾方面を見ても複雑に色が絡み合う。約2時間半の間、木々の錦絵の中を歩く。「しんどさ」忘れさすに充分の景色であった。冬や春の「雪の白と岩の黒」、夏の「木の緑と雪渓の白」の2色の山と違い秋の紅葉の山は色が幾重にも重なり一年で一番美しいのではないかと感じさせられた。なぜか大学時代には紅葉の時期にアルプス来たことがない。前期の試験の時期だったのかもしれないし、クラブ活動ということで山に行かねばならない義務感や山に何回行ったのか、山の中で何日過ごしたのかというようなノルマが重要で、ゆっくり山を見たりする余裕や山の恵みに感謝する謙虚さなんて全く無かった様に思う。 午後2時頃涸沢に到着。時々突風が吹く中テントを設営、コーヒーを沸かし涸沢ヒュッテ・涸沢小屋のある涸沢カール内をみると紅葉はほとんどもう終わっていた。天候も下り坂で雨も降ってきた。秋の夕日はつるべ落とし、午後6時にはあたりは真っ黒である。山では太陽が沈めば寝るしかない。ヘッドランプとろうそくの灯りで夕食をすませ、寝袋に入る。雨風が強くなりテントが吹き飛ばされるのではないかというほどの風で睡眠がとれない。風は舞っているようでいろんな方向からテントを揺さぶる。ようやく午前5時になり寝袋から出て朝食、雨風の中テントを撤収し午前7時には涸沢を後にする。北穂高に登る予定であったことなんかすっかり忘れて早々に下山である。昨日眺めた紅葉を時々見ながら必死に歩き、正午頃上高地に到着。山の中とは違い人人人の大都会である。両足とも足の裏には大きな「マメ」が例のごとくしっかりとでき右足のマメはつぶれてシミるシミる。天候には恵まれなかったが紅葉に感激した1泊2日の山行が終了した。 上高地の紅葉はこれからで10月の第4週あたりまで楽しめるようである。この紅葉の時期になると観光バスがあふれかえりバスターミナルの駐車スペースでは全く足りない。下山した13日は大正池付近まで約4kmほどの距離、かのバスは道の片側を塞ぎ数珠繋ぎになって停車していた。来年からは観光バスも規制されるとのこと。 今年のアルプス山行はこれで最後。もう10月末ともなればアルプスは雪山・冬山でありアイゼンとピッケルの世界となり単独行では死にまする。山に貴賎は無く山高きが故に尊いのでも無いのであるが、これからは近くの低山、金剛山・葛城山・岩湧山・二上山でお茶を濁しておくつもりである。またアルプスは来年6月か7月頃から再開の予定。鬼が笑うことなんか無視してもう来年はどこへ行こうか考えているのである。
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■ 2003年8月 有峰湖〜黒部五郎岳 |
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黒部五郎 |
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槍・穂高 |
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太郎平・薬師岳
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■ 2003年9月焼岳 |
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焼岳噴火口 |
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北峰と南峰の鞍部から見上げる |
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■ 2003年5月 葛城山 〜 一目百万本のつつじ |
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水越峠より登る |
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■ 2002年8月 南アルプス南部 便ケ島〜聖岳〜茶臼〜易老渡 |
大学卒業以来26年ぶりに南アルプスに単独で行って来た。(正確には大学卒業後22年だが1976年学?の時南アルプス縦走、北岳?茶臼、畑薙ダム、寸又峡温泉)(この時の写真をみると、某大学皮膚科助教授S氏も一緒に行っている)大学時代の山の道具は皆買い換えて、テントも買って聖から光まで3日間で行ってきた。14日午後5時に大阪を車で出発、盆休みの渋滞にきっちりはまり途中伊吹SA11時30分まで仮眠し、15日午前1時30分飯田インター着、午前2時30分?3時まで、南信濃村 「ていしゃば」 にてトイレ休憩及びポリタンに水補給する。午前3時に赤石林道に入る。光橋からはダートと舗装路が交互にでてくる林道だが、走りやすい。午前4時便ケ島着、1時間程仮眠の後、午前5時12分登り始める。その少し前4時45分頃聖岳をピストンすると言うすごいおじさんが出発していた。便ケ島の登山口からは少し登ると、トンネルを通過、昔の軌道跡の広い道が西沢渡まで続いていた。西沢渡に午前5時50分着。西沢渡の徒渉も「野猿」を使わず成功。急登の開始後、すぐ小屋跡に出る。小屋の裏に回ってまた登る。
午前6時ここで第1回目の休憩。(1120m)午前7時 第2回目の休憩(1420m) 10分間午前8時15分 第3回目の休憩(1860m直下) 10分間午前9時30分 第4回目の休憩(2120m) 10分間 午前10時30分 第5回目の休憩(2200m) 5分間 雨具準備?傘を取り出す午前11時 薊畑着午前11時30分 聖平着 途中より雨で26年ぶりの山なのに景色なんぞはどこえやらで、聖岳ピストンのおじさんも途中から引き返していた。薊畑手前でバテバテの状態で、薊畑から聖平までの降りは人が多く渋滞もありゆっくり降りた。聖平では、テントを張りビールでのどを潤す。午後2時頃よりかなりの強い雨。午後6時頃夕食。午後7時には就寝。目が覚めると満天の星空。明日の天気はよさそう。16日3時起床。ラーメンの朝食後テント撤収。聖岳ピストン用の荷物をサブザックに詰め、聖平分岐を午前5時5分に出発。朝早くは快晴で、5時17分薊畑着。午前5時55分小聖岳着360度のパノラマ。6時05分小聖出発、午前6時55分聖岳着。聖岳のピークからは富士から北アルプスまで見えた。登ってきたかいがあった26年ぶりの爽快感。大学時代に一緒に聖岳に登った1年先輩のN氏はもうこの世にいない。頂上で手をあわせた。彼はもう二度とこの景色を見ることも無いと思えば、少し目も潤んだ。時間の流れを考えれば感慨深い頂上であった。午前7時15分聖岳ピーク発、駆け足で降り午前8時10分聖平分岐着。 ザックのパッキングをし直し、午前8時50分茶臼に向けて出発。本日は30分歩いて5分休憩のリズムで歩くことにする。午前9時20分 第1回目休憩 森林限界手前午前10時5分 第2回目休憩ハイマツ帯。。聖岳よく見えるピークはガスがかかりつつある。午前10時45分第3回目休憩南岳手前小ピーク 先行パーティと話す。光岳までの予定とか午前11時20分上河内岳分岐通過 ガスがかかっており景色期待できず通過する午後0時 第4回目休憩亀甲状土庭園端 この頃からポツポツ雨 午後0時30分 茶臼到着テント幕営。16日昼から夜中までまた雨。雷も夜中中鳴っている。17日午前2時頃までは雨。17日も午前3時起床。午前5時27分茶臼発。午前5時55分茶臼岳頂上着。以後光岳まで行くと言う2人連れに付いて行く。朝はまあまあの天気茶臼岳からは南アルプス連山がみえる。しかし、光はガスで見え隠れしている。仁田池通過後午前6時30分希望峰着。午前7時30分易老渡岳着。20分休憩の後、下山に決定する。午前7時50分発。上の面平午前8時50分着、5分休憩。午前9時15分靴紐調整5分休憩。午前9時50分下の面平をすぎて、最後の10分休憩。午前10時30分易老渡着。約1400メートルの降りは足腰膝にきてモーヘロヘロ。やっと肩の荷物を降ろすことができ、空荷にて林道を便ケ島まで25分歩き、車を回収する。午前10時55分着。車で易老渡に行く途中、先程歩いて来た時には無かった落石が道を塞いでいた。ほんの数分で落石が起こったのである。いやー恐ろしい道だ。 昔とった杵柄のみで過去を思い出しながら行った今回の山行、出発前は緊張していたが終わってみて自分をほめてやりたい。22年というブランクがあり、全くの初心者といっていい自分が計画から最後までできたことに。 飯田でビジネスホテルにて1泊し、18日午前7時30分中央道に乗る。朝早いせいか盆休みの渋滞も無く、午前10時30分吹田インター着。午前11時には自宅に到着。山行を終えた。 南アルプス聖岳?光岳 2002年盆休み山行記
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小聖岳より聖岳 |
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